代表部の仕事:貿易ルールは途上国を豊かにするのか――WTOの現場で考えたこと

令和8年9月15日
貿易ルールは途上国を豊かにするのか――WTOの現場で考えたこと
 
西田光貴 一等書記官
 
WTOの貿易と開発委員会で発表する日本のJICA関係者(WTOウェブサイトの掲載写真を転載)
 
 1 貿易と開発をめぐる根深い立場の相違
 私は、世界貿易機関(WTO)における「貿易と開発」の分野をこの2年半担当してきました。ここでいつも繰り返し突きつけられるのが「WTOの貿易ルールはどう途上国を豊かにするのか」という問いです。本稿では、この問いをめぐるWTOでの議論の実態と、そこから得た気付きについてお話できればと思います。
 まず、加盟国の約3分の2が「途上国」とされるWTOでは、どの分野の議論であっても、それが途上国や後発開発途上国(LDC)の経済発展(開発)にどうつながるかが必ず話し合われます。ですので、「開発」は「分野横断的事項」とも言われます。しかし、「貿易」が途上国の「開発」にどうつながるのかというと、そこに唯一の明確な回答は見つかっていません。
 そもそも、どの国も、自分が必要な全てのモノやサービスを生産することはできません。そこで、自分にとって生産が「得意なもの」に特化して外国に輸出し、それで稼いだお金で「不得意なもの」を外国から輸入すれば、自然とどの国も豊かになるという考え方があります。この考え方に立つ限り、輸出先の相手国が関税引下げや無差別待遇といったWTOルールを遵守することは、途上国を含む全ての輸出国の経済発展に直結すると言えます。第二次大戦後にWTOの前身となるガット(GATT:貿易及び関税に関する一般協定)が作られた当初も、先進国は、自らへの市場アクセスの供与こそが途上国の「開発」になると考えました。
 一方、多くの途上国は、「植民地支配を受け、一次産品の供給者としての地位に留め置かれた」「自由貿易では自分達の未熟な産業が壊滅する」として、関税や貿易障壁による産業保護に訴える権利を強く求めました。しかしながら、実際に出来上がったガットは、セーフガードや一般的な例外規定など、そうした要望に応えるルールも一定程度取り込まれたものの、途上国が十分に満足できるものではなく、ガット・WTO体制は当初から、途上国の根深い不満と先進国への不信を抱えたまま出発しました。「歴史的不均衡」とも呼ばれるこの問題に関し、80年近くを経た今日もなお一部の途上国はその是正を求めています。

 2 WTOルールは開発に役立つのか?
 
WTOで2001年に立ち上げられた「ドーハ・ラウンド」は、正式な名称を「ドーハ開発アジェンダ(DDA)」と言います。そこで途上国が重視したものの一つが、途上国への「ハンディ」としてWTO協定の随所に盛り込まれた「特別かつ差異のある待遇(S&DT)」という条項の更なる拡充と強化でした。この議論は今も続いています。
 議論のポイントは、なぜ、このS&DTが途上国の経済発展をもたらすのかという点です。これは、WTO協定という貿易ルールの価値や意義をどう見るかという根本的な事柄に関わる問題です。輸出相手国への市場アクセスの獲得が「開発」になると考える立場からすれば、みんなが「ルールを守って」「貿易障壁を減らす」ことが「経済発展」につながるという考え方が導かれます。一方、上述のような「歴史的不均衡」の存在を前提とする立場からは、S&DTとは「途上国が自らの産業保護に必要な貿易制限を設ける不可欠な権利」であり、「先進国もかつて自国産業を保護していた」という歴史的事実に照らせば、「S&DTは途上国の経済発展に不可欠な措置」だという異なる議論が導かれます。こうした2つの考え方は根本的に相容れません。

 3 日本にしかできないことを考える
 
ただ一つ確実に言えることがあります。それは、「貿易は経済発展(開発)のための一つの手段に過ぎず、貿易の用い方は各国の置かれた状況によって様々」ということです。加盟国間での立場の違いを一旦脇におき、この点を議論の出発点とすることで、何か建設的で有益な取組ができないかと考えました。
そして次のように考えました。第一に、各国が自国の状況に応じて貿易を活用してきた成功経験は、似た状況にある別の国にとっても有益な参考になり得る。第二に、そうした経験を広く共有すれば、WTOのルールやS&DTがどのような場面で途上国の発展に実際に役立つのかを具体的に議論する糸口となる。第三に、日本を含め多くの国が行ってきている貿易関連の政府開発援助(ODA)――WTOでは「貿易のための援助(Aid for Trade)」と呼ばれています――が途上国の成功体験に実際にどう貢献しているかを検証することは、今後の支援をより効果的なものとする上で役に立ち、それは途上国自身の利益になるはずである。
 折しも2025年の夏に日本は横浜で第9回アフリカ開発会議(TICAD9)を開催し、その成果文書には「多角的貿易体制(WTO)の重要性」が盛り込まれました。そして、「アフリカと日本の共通利益のために貿易を活用する取組もきっとあるはず」と考えました。これを踏まえた日本ならではの貢献ができないかということで、代表部の上司・同僚や東京の関係者とも相談し、以上のような考えをまとめた文書を2025年11月の貿易と開発委員会に日本から提出しました。多くの加盟国から日本の提案文書に前向きな反応が示された一方、では具体的にどのような成果につなげるか等、多くの質問が寄せられました。

 4 どの加盟国の立場や主張も害さない
 
その後、議論を実際に前に進めるため、代表部の上司や同僚の力も仰ぎながら、先進国・アジア・アフリカ・LDC・中南米の代表部担当者やWTO事務局職員、そして東京の関係者と数多くの話し合いを重ねました。
ある国からは「テーマを絞るべき」と言われました。そこで、事務局の担当者からの助言も踏まえ、具体的な分野を挙げつつも、これらの分野を扱う専門委員会での取組との重複を避けるため、それらを「途上国の貿易の多様化や現代化」という分野横断的な視点で捉え直すというアイデアをまとめました。
また、ある途上国の担当者は、「貿易が開発をもたらすのか、開発が貿易をもたらすのか、その順序を持ち出すと大変だ。そこで間をとって、どのようにWTOが途上国の国際貿易への統合に役立つかという視点を交ぜるとよい」という助言をくれました。しかし、それをまたある別の先進国の担当者に相談すると、「馬を水辺に連れていくことはできても水を飲ませることはできないという英語の諺がある。国際貿易に参加するかどうかも結局は各国の意志次第。WTOが開発をもたらすという考えはおかしい。」という根本的な指摘も受けました。これには頭を抱えました。私が別途担当しているWTOでの加盟国別の貿易審査会合での途上国のステートメントや報告書も参考にしながら、どういう言葉を用いれば誰も反対しないのだろうかと、改めて原点から考え直すこともありました。
 こうした一つ一つのコメントを検討し、どの加盟国の立場や主張も害さないように注意しながら関係者とも相談してドラフトを作成し、それをまた各国の代表団にも見せてコメントをもらい、それをもとに更に修正するというプロセスを約半年を費やして進めました。そして、最終的に2026年7月の会合に前年11月の上記文書を改定した提案文書を提出しました。幸いにして、正面から反対や懸念を述べる加盟国はなく、多くの加盟国からサポートと協力の意向を表明してもらうことができました。

 5 終わりに
 これまでの取組を通じて感じたのは、相手を動かすには、第一に、相手にとって目に見える「付加価値」が何かを示すこと、そして第二に、相手に「しっかり自分の話を聞いてもらえた」「それをきちんと反映してくれた」という「関与意識(sense of engagement)」を持たせることが重要だということです。例えば、相談をした関係者から得たコメントや意見については、「テキストのここにこう反映されていますよ」と言うと、どの関係者も喜んでくれました。
 第三の教訓は、信頼関係の構築です。事前の意見交換を通じて信頼を築けていたからだと思いますが、ある途上国の担当者は会合前に「首都からの回答はないが、反対の意見は届いていないので、本日はただ発言を控えるだけにする」と率直に打ち明けてくれました。その一言が、会合の場における彼の「沈黙」の意味を正確に理解する助けになりました。
最後に、あるLDCの担当者が「本国では、道路・電気といった基礎インフラも不十分。ジュネーブという素晴らしい環境で仕事をしている自分は、ここの議論を本国の状況改善につなげるよう最善を尽くさねばならない」と私に述べました。マルチ外交の場では、様々な関係者が異なる本国の事情を背負っています。そうした相手を動かすためにも、ただ主張すべきことを主張するだけでなく、相手に何をどう伝えれば一番響くのか、これをよく考えながら仕事をしていければと思っています。
 
WTO貿易と開発委員会で日本の提案文書を説明する筆者(同僚が撮影)
 
(本稿は執筆者の個人的見解を示すものであり、日本政府の見解を示すものではありません。)